リバーガイド人生の記憶の引き出しを開けていく
こんにちは、リバーボードクラブの菅原です
新型コロナウイルスの影響が世界中に広がり、昨今気が滅入るようなニュースばかり目にする中、僕のリバーガイド人生の記憶をフワフワとランダムに辿るような内容で書いていきます。
今、僕らは自主的に営業自粛を行っている状況です。
いつまで続くかわからない状況で、川へ行くことができずオフィスで様々なことに思いを巡らせる日々。
そんな状況の中、情報を漁ることをやめて自分自身と向き合う機会でもあると思いフワフワと色んな事に思いを巡らせる日々。。。。
リバーガイドとしての生活を始めて約20年。
今までのガイド人生の中で仕事が無いことっていうのは実はよくあることだった。
先の人生の不安を常に抱えながらも、不安定な収入のリバーガイドのお仕事を続けることに対して本当に大きな葛藤を抱えながらも今まで続けてきた。
今、新型コロナウイルスでこんな状況になってしまって仕事が全くできない中、世の中の多くのことが変わり変わろうとしている中、ゆっくりと記憶の引き出しをランダムに開けていく。
スノーラフティングという罰ゲームのような遊び
北海道でリバーガイドを始めたのは20歳を迎える年。
でも実は最初はリバーガイドになるつもりで、そこの会社に応募したわけではなくて、ただただ江別の実家を出たくて、アルバイト情報誌をパラパラめくっているときに見つけたのが住み込みのスノーラフティングというお仕事だった。
結果として最初に働くことになったラフティング会社が行っていた冬のアクティビティーで、小さなボートをスノーモービルにつないでお客様を載せて雪上をブンブン引っ張りまわしすお仕事。
楽しかった。
お客様は料金を払って罰ゲームを受るという特殊な図式。
でもそんな状況が僕もお客様も腹を抱えて笑ってしまうから面白い。
スノーラフティングガイドとしては、ボートのお客様が落ちるか落ちないかのギリギリを攻めながら、ゴールした時にお客様が遠心力に振り落とされまいと踏ん張ってきた腹筋の疲労に耐えられなくて、思わずボートから転げ落ちてううう~と、のたうち回り呻きながら爆笑するという、笑いあり涙ありの状況を作りだせるか否かが、その当時ではガイドとしての腕の評価基準になっていた。
リバーガイドとしての出発
やがて雪が解けて春が来て、そこの会社のマネージャーにどうせこの先何も決まってなくてやること無いんだろと言われ、なし崩し的にラフティングのガイドトレーニングに参加することになった。
実はこの会社へ来るまではラフティングというリバースポーツの存在を全く知らずに生きてきた。
雪解けの春の尻別川は大きな波の立つ急流。
それまで川の上に浮かんだこともなかった。初めてのラフティングがいきなりガイドトレーニング。
そして今とは違い当時はチンタラやってたり、ガイドになりたいという意思があまり感じられないような働きぶりだったり、学ぶ姿勢をしっかりと見せれていなければ、お前なんかさっさと辞めちまえ、という時代。入れ替わり立ち代わりで訪れるガイド希望者。
みんな歳や事情も色々であまり詮索しない空気はあったけれど、元劇団の役者や、職を失った人やバックグラウンドがよく分からない人など国籍も様々。
その中にガイドになるつもりがあるのかないのかよく分からないスコットランド人の旅人がいてギターがとっても上手だった。
彼からはいくつかイギリスやスコットランドの曲を教わった。
でも結局彼はすぐにどこかへ行ってしまった。
結局その年は10~20名近い人が入れ替わり立ち替わりで入って来ても、最終的に残ったのはほんの数名のみだった。
やめていく人なんて珍しくなく、次第に夜逃げする人がいてもあまり驚かなくなっていった。
今の川業界ではガイド希望者はとても少なくなってしまっているようだ。。。
リバーガイドになってからも仕事なんてあまりなかった。
同時に食べていくのがやっとの状況に徐々に慣れていった。
そんな生活を続ける中、次第に他の国の川でも働いてみたいと思うようになり全財産の15万円を握りしめカナダへ行き、現地のラフティング会社へ。
そこでは住み込みで、トレーニングや言葉の壁もあり仕事ができるようになるまで少し時間はかかったけど何とか生きていけた。
そこでの時間、出会い、経験は今でも昨日のように覚えている。
お金なんてほとんど無かった。
でも、すべてが未知の世界。
僕にはそれでよかった。
当時はスマホや携帯電話なんて無い。パソコンもカメラも持っていない。
山奥にその会社はあり、川沿いに住んでいた。電気はディーゼルエンジンの発電機でお客様がいないときはもちろんOFF。電気のない日々が楽しくもあった。夜は月明かりがかなり明るい。
焚火で暖をとる。
ギターとハーモニカ。
ラフティングのガイド中にひっくり返った話やレスキューの話。
みんな色んな国から来ていて、それぞれの川で起こった様々なストーリーを聞くたび、僕の向上心を刺激した。もっとたくさんの世界を見てみたい、経験したいと感じた。
ビール瓶にロウソクを立てて寝る前に本を読む。
飲み水は川のお水を沸かして飲む。
2000円くらいの国際電話カードで数か月に一回、日本へ連絡する程度。
すべての情報はリアルタイムで接する目の前の世界のみ。
ガイドはみんな壊れた歴代のスクールバスに住み、自分と向き合い、地球と向き合い、焚火を見つめ、その火の中に意識は引き込まれていき、ビール片手にガイド達の話す物語は夜が更けるまで続く。
まだあまり英語が分からなかったはずの僕でも焚火の中に浮かび上がってくるリバーガイド達の語る物語の様子が、投影機で炎に映し出された映画のように僕を魅了し、まるで自分もそのストーリーの中にいるかのような感覚になることさえあった。
川にある無限の世界への好奇心
なぜリバーボードクラブを立ち上げたか?
それは、リバーボードだけを楽しんでもらうことが目的ではなくて「川」を通して触れることができる「無限の世界」があるからだ。
人によって色んな形に変わる。
そこにたくさんの物語が生まれる。
その「無限の世界」は誰のものでもない。
それは「川」を通して繋がる人と人に受け継がれていく物語だからだ。
まだまだリバーボードクラブでは上手くそういったことができる場所を創れていないのは重々承知している。
コツコツと積み重ねていって創り上げていくのみだ。
僕は「川」のある生活に救われ生かしてもらってきた。
思いがけずに始まった「川」と共に生きる生活。
素晴らしい世界への入り口になりえる「川」。
ランダムに「現在」と「記憶」を書き綴ってみました。
また気が向いたらこんな感じで書いてみようと思います。