僕はリバーガイドとしての生き方に「しがみつき続けながら」生きている-2022/03/28

こんにちは。リバーボードクラブ代表のYoheiです。
昔、僕がラフティングガイドとして長年生きてきたことに関して、文章にしたことは殆どなかったと思いますが、今回はその時期の背景も交えて少しだけお話できればと思います。
リバーボード(ハイドロスピード)というスポーツを何故こんなにも愛しているのかということに繋がる文脈にもなるので、ご興味ある方は是非読んでください。

リバーガイドとしての生き方と現実

僕は高校を卒業してから、北海道でラフティングガイドとしての生き方に出会い、川と共に生きる世界に触れたことで、それまですっかり失っていた「自分を信じる力」を少しずつ取り戻していけるかもしれないという希望を持つことができた。

人から見ると僕はどこか「抜けている」らしい。
人によっては稀に良い意味で「純粋」と表現してくれることもあるが。。。
それが理由で同じカンパニーのガイドからも馬鹿にされることはよくあった。
でも、そんなことを差し引いても、ずっと失っていた自尊心を与えてくれて、徐々に心を癒やしていってくれたのが「川」だった。
川は誰に対しても「平等」なのだ。

上手く川の流れを読んで他のガイドよりも上手に急流をクリアできたとき、人から何を言われていたかなんて、すべてどうでも良くなる。
自分がガイドするお客様が喜んでくれたら、それが何よりも嬉しく誇らしくもあった。
川の上では僕たちガイド同士も常に誰よりも上手く川を下るということを意識し合い、毎日が勝負でもあった。
お客様を安全に楽しくガイディングする事に加え、ガイドの操船技術やレスキュー技術も仕事を優先的にもらうためには大切な評価基準でもあるからだ。

他の人よりもガイディングのスキルを上げて、僕を馬鹿にしていたガイド達を見返してやりたいという気持ちと、自分自身が本来持っているかもしれないポテンシャルを模索し、試して、成長したいという強い思いを抑えきれなくなり、カナダや他国の川、そして日本各地の川を渡り歩く生活が始まった。

しかし、そんな生活も10年くらい続けていくにつれて、次第にラフティングガイドとしての生き方に希望を見いだせなくなっていった。
ラフティングガイドとしての生き方や腕には自信と誇りを持っていたし、僕はきっと同じくらいの時期に始めた人たちの中でも、頑なにその生き方にずっと「しがみついてきた」人間の一人だと思う。

恐らく半分以上の人は途中で見切りを付けて、通年で安定した収入のあるお仕事へと人生の舵を切っていったのではないだろうか。
もちろん、人によっては色んな事情により安定したお仕事の合間にお手伝いとしてガイドを続ける人もいるわけで、そういう選択肢もガイド業を続けていく上ではあるわけですが。

リバーガイド一本で生きていくことは決して簡単では無いのは確かです。
全く別の仕事につくとなれば、自分が川で積み重ねてきたものは一体何だったのか。。。
毎年、ラフティングシーズンが終わる秋に差しかかるころには、自分の今後の生き方に対して真剣に悩み続ける時間を過ごすようになっていった。

「フランス」の真剣な向き合い方に打ちのめされて、ガツンと目が覚める

そんなラフティングガイドとしてのキャリアの終盤にリバーボード(ハイドロスピード)の世界大会が中米のグアテマラで開催される事を知った。
僕が働いていたラフティングカンパニーでは当時ハイドロスピードのツアーも開催していたし、自分にとって何か刺激が欲しいと思っていた時期でもあったので、気分転換も兼ねて参加してみることにした。
因みに、世界大会とはいえ、競技人口は少ないので各国での選考会はなく、誰でも参加する権利は与えられているのが現状です。

その当時は、リバーガイドとしての生き方に限界を感じていたし、どこか諦めてしまっている自分がいた。もうこの先、この生き方も長くは続けられないかもしれないという思いと、この先どうやって生きていけばいいのかという絶望が年々強くなっていた。

グアテマラの世界大会には、このスポーツの発祥の国「フランス」の選手や中米各国、そしてアメリカやオーストラリアなど様々な国のリバーボード(ハイドロスピード)を心から愛する人たちがいた。
半ば観光気分でいた自分やアメリカの選手に対して、フランスの選手達は「レースはお遊びじゃないんだ。おまえ達ふざけるな。帰れ」という張り詰めた空気と威圧感、そしてその真剣な向き合い方と誇りによって他国の選手を完全に圧倒していた。
実際、フランスのトップ選手の一人は不満を前面に主張し、浮ついた選手達に向かって本気で怒っていたのを覚えている。
結局その選手は僕には最初から最後まで一度も口をきいてくれなかった。
徹底している。

グアテマラ大会以降、僕は今まで自分に欠けていた「何か」を強く感じるようになった。
或いは、リバーガイドとして生きていくことに希望を見いだせずにいた自分に、「何か」が欠けていたことにすら気づけていなかったということに、気づくことができたのかもしれない。
それが何だったのか。
日本へ帰ってからも、その「何か」を探る日々が続いた。

リバーボード(ハイドロスピード)のポテンシャル

リバーガイドとして長年腕を磨き続けてきて「川」というフィールドに自分の居場所を見いだすことができるようになって、僕は川に対する愛情がどんどん深くなっていった。
川こそが「自分を信じる力」を与えてくれたのだ。

グアテマラ大会の後に改めて考えてみると、リバーボード(ハイドロスピード)であれば、大人も子供も初心者の人も「自らの意思」で動いて川を泳いで楽しむことができる。
そして、このスポーツにはまだまだ秘められた認知されていない可能性があるはずだと。
その可能性を僕はあのグアテマラ大会で感じたのだ。
そして、それはまだ確立されていたわけではなくて、あの大会で出会った選手達みんながそれぞれの解釈で模索し続けているんだと。
僕にはまだリバーガイドとしての役割があるのかもしれないと考えるようになっていった。

フランスの選手達は小学生の頃からこのスポーツと親しみ、川と触れあってきたらしい。
僕の心を救ってくれた「川」とこんなにも仲良くなれるスポーツ。
「川」と「リバーボード」を通して、自分が今まで積み重ねてきた全ての経験を生かしてみたいという思いが日に日に強くなっていった。

続けることでしかその先の景色は見えてこない

川の世界でリバーボード(ハイドロスピード)はまだまだ認知されていなくて、評価もされていないのが現実だ。
リバースポーツ自体も結局のところ、世の中で言えばハッキリ言ってマイナーなわけだから、リバーボードはマイナー中のマイナーなわけです。
僕はリバーガイドを始めた頃から人に理解されることは少なかったし、馬鹿にされてきたし、その悔しさを原動力にしてきた。
そして、このスポーツもまた世の中ではまだまだ認知されておらず、評価すらされていないことに対してすごく悔しいし、本当に悔しいし、心底もどかしい。
思えば僕はずっと何かしら悔しい気持ちと戦い続けているし、結局逃れられないでいる。

でも、このスポーツの持つ力を信じる心に揺るぎはない。
だって絶対に素晴らしいスポーツだから。
そして「川」に希望を見いだし与えてもらった僕に、今まで積み重ねてきたことを人のために生かすチャンスを与えてもらえたんだと解釈している。

それがグアテマラ大会で感じた「何か」かは分からない。
今だに葛藤だらけで課題がたくさんあることは確かだけど、やり続けることでしかその先の景色は絶対に見れないわけで。

リバーボードクラブを立ち上げて今年で6年目。
今でも模索する日々は続く。
「何か」についての解釈は川の時間を共有する中できっと感じてもらえると信じています。
このスポーツに希望を見いだして、リバーガイドとしての生き方に今でもしがみついています
自分ができることを完全燃焼できるまで、そしてこのスポーツの持つ可能性を最大限に表現できるまで、この生き方にしがみつき続けます。
このスポーツを通して少しでも素晴らしい「何か」を感じてもらえれば、この生き方にしがみつき続ける手に力が入るし、それが何より嬉しい。

リバーガイドとしての矜持を胸にこれからもこの生き方に「しがみつきながら」コツコツと積み重ねていきます。

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